秀808の平凡日誌

第8話 祈り

第8話 祈り

「うーん…なんか落ち着かないな…」

 クロウは夕食の買い物客でごった返す市場にいた。

 そう言うクロウも夕食の材料を買うためにここまでやって来たのだ。

 今までクロウはこんな所へきたことはなかった。普段の食事は、狩りのついでに採ってきた野草や

 干し肉などで簡単にすませていたが、ルーナがいる今日はそういうわけには行かない。

 あれこれ買い込んで家に着く頃には辺りが暗くなりかけていた。

「ごめん、遅くなっちゃったな」

 クロウが家に着くと防具を外し、部屋着になったルーナが待っていた。

「あ、クロウさん遅かったですね。じゃあ直ぐに作りますから待ってて下さいね」

 ルーナはクロウから買い物かごを受け取り、台所へとむかった。

 暫くして、テーブルは美味しそうな料理の皿で埋め尽くされていた。

「凄いな、これみんな1人で作ったのか?」

 椅子を引きながらクロウが言った。

「はい、でも少し張り切りすぎちゃって…こんなにたくさん2人で食べ切れませんね」

 照れくさそうにルーナはそう言ったが、30分もした頃にはテーブルいっぱいの料理は、全てクロウの腹に収まっていた。

「あ~うまかった。ルーナって料理上手いんだな」

 椅子の背にもたれかかり、大きくのびをしながらクロウが言った。

「よかった、口に合わなかったらどうしようかと思った」

 お腹いっぱい食べて幸せそうなクロウを見ているルーナもまた幸せそうだった。

 すると突然クロウが立ち上がった。

「やばっ! 刀を研ぎに出すの忘れてた!」

 重さと威力で叩ききる様な大斧には必要ないが、クロウのスレイヤーソードなど、

 切れ味を重要とする刀は、その都度こまめに職人に研いでもらわないと以外と早く駄目になってしまう。

「早く行かないとお店が閉まっちゃいますよ」

 慌てるクロウを見て、ルーナはくすくす笑っていた。

「ごめん! 直ぐ戻ってくるから!」

「行ってらっしゃい。私は夕ご飯の片付けしてますね」

 クロウは『スレイヤーソード』を背負い、ドアを破る勢いで武器屋へと走っていった。



 武器屋からの帰り道を、クロウは走って家へと向かっていた。

「くそ~ あの妖怪ジジィ、急いでるときに限って説教垂れやがって…」

『剣の使い方がなっとらん、ワシが精魂込めて作った剣を棒きれのように扱いおって。大体最近の若い者は…』 

 永遠と続くかに思われた御隠居の説教のせいで、思っていたより遙かに時間がかかってしまった。

「ただいま~ ゴメンな、御隠居に説教喰らっちゃってさ…」

 しかしそのクロウの声に返事はなかった。

「ルーナ?」

 前と同じ、とても不快な胸の高鳴り…

 台所のドアを開けると、そこには二度と見たくないと思っていた光景が広がっていた。

「かっは…うあ…ああぁぁあああぁぁぁあっ!」

 床にうずくまり、胸を押さえながら叫び苦しむルーナの姿。

「ルーナ!」

 クロウは割れた皿を踏まないように避けながら、部屋中に響く声の方へ駆け寄る。

 クロウはルーナの姿に、その場から一歩距離を取ってしまう。

 今までに見たことのないような苦悶の表情と、口からはおびただしい唾液を流しながら大きな声を上げ続ける。

 全身は目に見えて解るほど震え、服は全身から流れ出る冷や汗でびしょ濡れのようにも見えた。

「はっ…ぅっあ…ふぅっあ…くっあ…ク…ロウ…さん」

 ルーナに呼ばれてクロウは我に返った。

「ルーナ、薬はあるのか!?」

 ルーナは何かを言おうと口を開くが声にならない。ようやく首を左右に振ってクロウに薬がないことを伝えた。

「 っ! 待ってろ! 病院まで行って来る!」

 そう言ったクロウの服の裾をルーナが弱々しく掴んだ。

「行かな…いで…一人……しない…で…」

「 っ…ルーナ…」

 クロウはルーナの言葉を聞き入れ、取り敢えずルーナをベットまで運んだ。

「はっ…ふぅっあ…くっあ…ぅぁ…」

 本当は苦しむルーナを病院まで連れて行きたかった。けれど今、ルーナを下手に動かしたらいけない

 ということも目の前の状況を前にすれば嫌でも解る。

 そして自分には、祈るほか何もすることが出来ないとも解っていた…

「ルーナっ…くっ…」

 クロウの体は、絶望的な思いと何も出来ない自分への悔しさで震えていた。

「ちっく…しょ…ちくしょう…」

 そして罪悪感も同時に感じていた。もしかしたら、自分のせいでルーナはあそこまで苦しんでいるのかも知れない。

 自分が狩りになんて誘わなければ…

 家になんてよばなければ…

 ルーナの家なら薬もあったのではないか?

「…ルーナ」

 クロウはルーナの寝ているベットの横に座り、ルーナが落ち着くのを待っていた。

「くそっ…」

 身体の動きは落ち着いても、胸の中にある気持ちは少しも消えることがなく、クロウは

 繰り返しそう呟いていた。



 何分…何時間たったのか分からない

 クロウはルーナの横に座り続けていた。

 今はルーナもだいぶ落ち着いてきた。

「大丈夫だよな…絶対に…」

 考えてもみれば、自分はルーナの病状のことなど何も知らない。

 どんな病気で、どんな具合で、今後はどうなるか…何一つとして知らなかった。

「絶対…大丈夫だよな…」

 知っていたからといって、何かが変わるわけじゃない。

 けれどそのことを知っていれば、もっとルーナに別のことがしてやれたかも知れない。

 もしかしたら、こんなことにはならなかったかも知れない。

 そう思うと、自分のことが許せなかった。

「…くそっ…」

 クロウは右手に拳をつくり、血が出るのではないかと思うほどにきつく握り締めていた。 



 そして、それから暫くしてルーナが目を覚ました。

「…ルーナ?」 

「ぁ…クロ…ぅ…さん…」

 クロウの呼びかけにルーナは弱々しく返事をしてくれた。

「大丈夫か…ルーナ?」

 そこにはベットに横たわり、衰弱しきっているルーナがいた。

 …見てはいられない…

 クロウはルーナを見てそう感じていた。

 いつも見ていたルーナの姿はどこにもない…

 まさに『病人』と言える姿だった。

「…はぃ…ちょっと苦しいですけど…さっきに比べれば凄く楽になりました」

 そう言ってルーナは、辛そうな表情の中に笑顔を作る。

 その笑顔は初めてあったときに見せた、あのとても綺麗な笑顔だった。

「ごめんなさい…クロウさん、せっかく呼んでくれたのにこんなことになっちゃって…」

「気にすんなよ。機会だったら、いくらでもあるしさ…」

 必死に元気に振舞おうとしても、胸の思いまではどうしようもない。

 クロウの声には元気がなく、明らかに無理をしていることは明白だった。

「…クロウさん…無理、しないで…」

「あっ……」

 ルーナの一言でクロウは口を閉じてしまう。部屋が再び静かになった。

「ごめんなさい…クロウさん…」

 しかし少しすると、ルーナはクロウの方を向いていった。

「何言ってんだよ…お前は悪いことなんてしてないよ…」

 クロウの返事にルーナは少し顔を背け話し始めた。

「私ね、分かってたんです…自分がどうなるかって…」

「……」

 クロウはルーナの話を黙って聞いていた。

「私は…死ぬんだって…もぅずっと前から…」

 言って欲しくない一言だった。その一言が、クロウの胸に重く圧し掛かる。

「でも…怖いとか、思ったりしなかったんです…むしろ嬉しいとも思った…私は死ねるんだって思ったら…」

「…何でだよ」

 クロウは目から出そうになる涙を必死にこらえながら、ルーナの話しに耳を傾ける。

「死にたかった…励ましててくれる人もいない…毎日薬を飲んで、注射をして…  発作に怯えるだけの生活はもう嫌だったから…」

 ルーナの声が、震えだしているのが解った。

「馬鹿なこと…」

 クロウがルーナの言葉を否定しようとすると、それを小さい声でさえぎるようにルーナが言った。

「…本当に、死にたかったから…もう、生きていたくなかったから…早く楽になりたかったから…」

 その言葉に、クロウはもう自分の気持ちを抑えることが出来なくなってしまう。

「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ!」

 クロウは大きな声をあげてそう言うと、下をうつむいてぽろぽろと抑え込んでいた涙を流し始める。

「クロウ…さん?」

「…馬鹿なこと言うなよ…」

 涙が止まらなかった。目から流れ出る涙は、ルーナの横たわるベッドにどんどん落ちていく。

「クロウさん…」

 そんなクロウに少しでも近づこうと、ルーナは全身に走る痛みをこらえながら上半身を起こした。

「ルーナ!」 

「…わっ」

 クロウは上半身を起こしたルーナを力強く抱きしめる。

「頼むから…死ぬとか言うな…死にたいとか…言うな」

 どこにも届かない、切実な願い…それでもそう言うしかなかった。

「クロ…さん…私…」

 するとルーナの声も涙声に変わっていく。

「ルーナ?」

「クロウさん…私…私…まだ死にたくない…もっとクロウさんといたい…」

 クロウの言葉に、ルーナも自分の思いを口にする。

 弱々しい口調でも、その言葉には強い想いを感じる。

「クロウさんが好きだから…大好きなクロウさんともっといたいから…」

 そして自分を抱いてくれるクロウの背中を弱々しく抱きしめてきた。

「…ルーナ」

「お願い…私、まだ……もう死にたいなんて二度と言わないから…私…」

 もっと生きたい…もっと生きて、大好きなクロウと一緒にいたい

 たとえそれが口で言うことしか出来ない、かなわない願いだったとしても…

 そう口にせずにはいられなかった。

 それが、ルーナの心からの願いだから…

「…もっとクロウさんと一緒にいたい…私…まだ死にたくないです…」

「大丈夫だって…お前は死んだりしない。絶対に良くなるから…」

 クロウにもルーナがどうなるかが分からないわけじゃない。

 けれどクロウは、ルーナがどうなるのか…その言葉を決して口にはしない。

 ルーナが死んでしまうと、自分の口からは決して言いたくなかった。

「けどっ…けど、私っ…」

 クロウの胸に抱かれ、目から涙をボロボロこぼしながら、ルーナはクロウの言葉を否定しようとする。

「…大丈夫だって…絶対、大丈夫だって…」

 クロウはルーナを強く抱き、そう何度も繰り返す。

その言葉はルーナに言い聞かせるだけじゃなく、もしかしたら治るかも知れないと…自分も信じたかった。

 自分の中だけにある僅かな望みを、なくしたくなかった。それをなくしたら、本当に全てが終わってしまう気がしたから…

「…はぃ…」

 クロウの言葉に押され、ルーナはそう返事をした。

「大丈夫だから…」

「はい…」

 ルーナの目からは、涙が止め処なく流れ続けていた。しかしそれは悲しみの涙だけじゃない…

 自分を支えてくれるクロウへの、嬉し涙も一緒に流れていた。

「ルーナ…大丈夫か?」 

 クロウは抱きしめていたルーナの体を離れ、支えながらルーナをベットに横たわらせる。

「はい、ありがとうございます…クロウさん」

「ん…気にするなって…」

「…クロウさん…」

「どうした…ルーナ」

 小さなルーナの声にクロウは敏感に反応を返した。

「あの…手を…握っててくれませんか…」

「…解ったよ」

 そう言うとクロウは、ルーナの左手を強く握り締めてやる。

「クロウさんの手って、大きくて、温かくて大好きです…凄く落ち着くんです」

「そうか…」

 ルーナの言葉に、クロウは少しだけ照れ笑いを浮かべながら返事をする。

「ごめんなさい…クロウさん」

 少ししてルーナは、クロウにそう言った。

「何がだよ…」

「病気のこと…黙ってて…」

 ルーナの病状については、これまで全く知ることはなかった。

 確かにこうなる前に、知りたかったと思う。

 けれどもう過ぎてしまったことを、言っても仕方ない。

「…良いって。そんなの気にしなくてもさ…」

「はい…ありがとうございます…クロウさん」

 ルーナの返事にクロウは少しだけ照れながら言う。

「今更、『さん』なんてつけて呼ぶなって…」

「…はい…ありがとう…その、クロウ…」

 最初で最後…自分のことを、名前だけで呼んでくれた瞬間。自分とルーナの距離が、完全になくなったと思った。

「あぁ…」

 クロウはルーナの言葉に、笑顔を見せる。

 そしてルーナは、クロウのことを呼び捨てにして小さく笑うと、目を閉じて何も話さなくなってしまった。

 遠くからでは、眠っているようにも見える。

「…ルーナ?」

 けれどクロウが声をかけても、ルーナはもう何の反応も返してはくれない。

「眠いだけだよな…そう、だよな…」

 それでも自分の握るルーナの左手は、だんだんと温かさをなくしていく…

 まるで金属で出来た手を握っているかのように、硬く、そして冷たく…

「…ルーナ?…眠いだけなんだよな…眠い、だけだよな…」

 クロウがルーナの顔に目を向けると、そこにはさっきまでの苦痛に満ちた表情ではなく、安らかな顔がそこにあった。

「ルーナ……ル…ナ…」

 共に強く握り合うその手に、クロウの涙がこぼれていく。

 冷たさと温かさ…二つの手の上に、止め処なくこぼれていった。




 涙が、止まらなかった。止められなかった…

 悲しかった…悲しくて悲しくて、

 泣くことしか出来なくて悔しかった。

 大好きなのに、何も出来なかった…

 何もしてやれなかった…

 ただ悲しくて、

 泣くことしか出来なかった…


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